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書院の五葉マツ [Z900RSと名木]

2020年7月中旬、群馬に行った際に立ち寄った場所。

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たばこな自販機の前に駐車。
でも、非喫煙者。

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書院の五葉マツ:
県指定天然記念物。
推定樹齢約400年。高さ約18m、目通り25m。
慶安二年(1649)高平の宿割りの際、沼田城主
の書院の庭木として植樹されてたものと伝え
られている。五葉マツとしては、この地方ま
れに見る巨樹で、樹勢も旺盛である。
品種は南方系(四国系)に属し、この地方にあ
ることは珍しいことである。

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確かに、松にしたらかなり大きい。

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樹高はガンダムと大体同じ大きさ。

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松じゃ無い様な枝や葉の張り方。

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でも、幹を見るとやっぱり松。

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軽い気持ちで城の庭に植樹したお殿様も
まさか、ここまで大きくなるとは思わな
かったろうな。と思いつつ見学完了。
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石堂寺 [千葉からZ900RSとちょっとその辺]

2021年1月、緊急事態宣言前のツーリングの際
立ち寄った場所。

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駐車場へ。

停めた後、上から参拝客の人が
「上の駐車場あいていますよ」

さすが、千葉県人。
ライダーに優しい。
でも、動かすのも面倒だったのでそのまま。

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山の中にあるお寺なので意外に広い。

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石堂寺 薬師堂。天正3年建立。
重要文化財。

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趣のあるシブイ薬師堂。
茅葺の屋根がいい。

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石堂寺 多宝塔。室町時代(1545)建立。
重要文化財。

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千葉にこんな凄い多宝塔があったとは。

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根来寺多宝塔(大塔)に匹敵するのでは。
昨年、和歌山に行ったときに根来寺に行きたかったけど・・・・
べ、別に行けなかったひがみで行っている訳じゃないんだから。


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御本尊観世音菩薩
厨子室町時代永正10年建立
本堂室町時代永正10年頃建立
重要文化財。

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御開帳のお知らせ。再来年に延期。
来年ならワクチンも接種進んでいるのに延期とは。
オリンピックも同様に余裕を見て延期すれば良かったのに。

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お参り。
「立ちごけしませんように!」

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石堂寺縁起:
当寺は神亀三年(726)聖武天皇の勅願により行基上人の創始と
伝えられ、天竺阿育王塔を安置する南総屈指の天台宗の名刹
である。その後、仁寿元年(851)天台座主円仁(慈覚大師)が
当寺に投錫・七堂伽藍を造営、鎮護国家の道場として完成した。
更に嘉禄元年(1225)には定辨法印が境内の再興をはかり、
文安三年(1446)には比叡山の学頭宗覚法印が住職となって
全山を再興、内寺中に生善院他五寺二院、外寺中に西之坊
外五坊、中寺に妙法坊外五房、門徒二十七ヶ寺、妻帯寺
六ヶ寺等、隆昌を極めるに至った。
ところが、文明十九年(1487)妙法房より夜盗の災火が起り
猛勢全山に及び、堂宇僧房悉く灰燼に帰したのであった。

宗覚の弟子宗海は、領主丸氏の生まれでもあり、丸氏の
強力な援助と十方信者の助力をえ二十余年の歳月を経て
永正十年(1513)漸く再建に成功した。
北条氏と足利・里見連合軍が戦った国府台の戦(1579)以後
は、足利氏(鎌倉公方の後胤)の子弟を当山で養育、ために
里見氏より一千石の寄進を受け、寺域の整備がはかられた。
この間元亀二年(1571)、織田信長が比叡山を焼き討ちした
時には、退山の僧が伝教大師将来の天台大師御真永影を
護持して当山に来錫、長く恭敬供養、寛政二年(1790)墾望
されて比叡山に還座、その功により、総本山直末本山格に
班列されて今日に至っている。


帰り際・・・・

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\コンニチワ/ 松ぼっくり。

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根来寺+比叡山延暦寺がくっついたお寺なのに
バイクツーリングの人は立ち寄らず通り過ぎて
行くという・・・・もったいない!
と思いつつ見学完了。
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建有川寨門跡 [千葉からZ900RSと1000km超]

2020年8月、北海道に行った際に立ち寄った場所。

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駐車場に駐車。

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すぐ隣には寨門跡。

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建有川寨門跡:
安政二年(1855)二月徳川幕府は、蝦夷地のうち建有川から乙部に
かけての地域を松前藩領として残し、他を幕府の所領として函館
奉行所の管轄とした。そのため、接点となったこの地に境界柱が
建てられ、警備のための寨門(さいもん)がおかれた。
寨門をはさんで木古内側に函館奉行所の番所、知内側に松前藩の
番所があり、出入りの旅人の手形や荷物を検査していた。
尚、松前藩の番所には御先手組席の家臣を番頭とし、それに徒士
足軽など五人程が駐屯していたと伝えられている。
往時知内と木古内は建有川を境界としていたが、川の氾濫により
いつも川筋が変わっていくため、境目が明らかでないという不便
さがあった。
そのため、洪水などにより川の流れが変わっても、
そこを境界とし、互いに苦情は言わないこととする「為取替申境
一礼之事」と言う約定が、安政三年正月両村の代表者によって
とりかわされている。

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時間的なモノも重なって、この世とあの世の境界にも見えたり。

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知内町の名産はニラ。

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これは葉っぱは似ているけど水仙。

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「為取替申境一礼之事」の約定が取り交わされる
まで、いつも知内の人は川筋にニラみを利かせて
いたのかも。と思いつつ見学完了。
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五色地蔵 [千葉からZ900RSと1000km超]

2020年9月中旬、京都に行った際に立ち寄った場所。

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停められそうな場所へ。

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五色浜入口にあるお地蔵様。

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引原権助と五色地蔵:
網野・木津間の引原峠は大木が茂った、昼間でも暗山道
でした。言い伝えによると、峠には引原権助と言う古狸
がいて、よく人を化かしました。困った近所の人々は、
狸の悪さを封じるため石地蔵を造り、僧にお経を読んで
もらったところ、狸は塩江の五色の山へ移りました。
しかし狸は、五色の山でも悪さをし始め、嵐の夜になる
と浜辺で火を燃やし、沖を通る船をおびき寄せ難破させ
たそうです。そこで、塩江の人々は相談し、大きな石地
蔵を造り、僧にお経を読んでもらったところ、狸は但馬
の方へ移ったとのことです。

悪い狸だ!

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例え、浜と言えども直火禁止。
これはいい例。

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船が難破したのは灯台効果かな?

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五色地蔵の周りにもお地蔵様。

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五色地蔵様にお参り。
「立ちごけしませんように!」

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私が「愛の難破船」状態になっているのは
引原権助のセイなのかもしれない。
と思いつつ見学完了。
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坂本観音の石像馬 [千葉からZ900RSと300km超]

2020年10月下旬、福島に行った際に立ち寄った場所。

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停められそうな場所へ。

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坂本観音(勝善神社)の石像馬:
馬の守護神として信仰を集めた坂本観音に奉納された
雌雄1対の像である。明治37年(1904)に建立された物
で、現在の浅川町福貴作の石工小松布孝(通称寅吉)の
作である。
後に雄(右側の像)が壊れた為、昭和10年(1935)に現在
の浅川町里白石の石工高坂庄司により作り直された。

※両像とも、平成23年(2011)3月の東日本大震災により脚部が折れたが、
腹部に支えの補強を行った上で修復した。


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勝善神社だけど、万人橋の松山勝善と関連は
なさそう・・・・

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左右に狛犬ならぬ、狛馬。

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腹部には補強材が!

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センタースタンドと思えば違和感無し。

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観音堂には馬の奉納画が。

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観音様にお参り。
「立ちごけしませんように!」

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立ちごけしそうな時、観音様の御力で
バイクの真ん中の足が固く立って支えて
くれるかも。と思いつつ見学完了。
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雲雀山 [千葉からZ900RSと1000km超]

2020年11月中旬、和歌山に行った際に立ち寄った場所。

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ちょっと微妙な場所に駐車。
急いで見学っ!

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雲雀山:
中将姫十四歳の春、継母の照夜の前の命令で、家臣の松井嘉藤太は
姫を板張りの輿にのせて、奈良の都からこの雲雀山に連れ出し姫を
殺害しようとしたが、姫は「これ嘉藤太や、私は日に六巻のお経を
唱えている。このお経が終わればどうぞ首を討ちとってください」

と、西に向かってお経を唱える罪もない可憐な姫を見て、さすがの
嘉藤太も振り上げていた太刀を捨て
、姫を助け(故に一名この山を
太刀捨て山)麓を流れる去年川(こぞがわ)の奥の岩陰に草庵を造って
姫と嘉藤太夫妻の三人で、きくも悲しい二年三ヶ月間隠れ住みました。

「母を恋ひ 中将姫が 揚雲雀 聞きけむ山ぞ 秋は紅葉す」

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わが生涯に一片の悔いなし!!
嘉藤太に討たれる前の中将姫は
こんな状態だったのかも。

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「嘉藤太と中将姫が座ったのでは」
と思えるような古いベンチ。

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さらに近くには文殊菩薩の御堂が。

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文殊菩薩様。
「立ちごけしませんように!」

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悲しい二年三ヶ月の後は・・・・
(続きはwebかな?)
と思いつつ見学完了。
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やまびこ吊橋 [千葉からZ900RSと600km超]

2020年7月中旬、宮城に行った際に立ち寄った場所。

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駐車場に到着。

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やまびこ吊橋:
横川砂防ダムの施工に伴い、周辺の環境整備が平成9年度
に計画され5ヶ年を掛けて整備されました。
整備計画のシンボル『やまびこ吊橋』は、横川渓谷の
水面上20mの上空に架かる橋長120m、幅2mの鋼桁吊橋型
人道橋であり、東北でも有数の規模を誇ります。
吊橋から望む不忘山の眺めは石積構造の砂防ダムとみごと
に調和し、まさに絶景です。

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やまびこ吊橋に到着。

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早速、渡ってみることに。

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スケスケ。

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いのししの糞かな?
クマではないはず・・・・

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うーむ。吊橋としてなにか物足りない気が。


帰りは動画で。

吊橋なのに万人橋並みに頑丈なのが・・・・

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万人橋・・・・・・・
武田信玄と松山勝善の合戦の折、窮地に陥った主人
松山勝善を助けるべく、侍大将楠木清久は援軍を率
いて向かった。しかし、松山勝善の立て籠もる高楼
山へ行く途中にある雛谷の橋は敵の手によって落と
されていた。
そこで楠木清久は一計を案じ中国の兵法書『武鑑』
にヒントを得た人橋をかけ谷を渡った。
この時人橋となった者、三十人は味方の兵を渡し
きったあと、ことごとく力尽きて谷に落ちたという。
その後、松山勝善はこの三十人の勇者達を讃え、
そこに高楼三十塚を建立した。
現代でも橋を建設する時は、工事関係者がこの塚に
参拝工事の安全を祈願する習慣がある。

出展、中津川大観著 時源出版刊 「戦場にかける橋」より。

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そんじょそこらの橋よりがんじょうだぜ!

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「吊橋効果を期待するなら適さない」
と思いつつ見学完了。
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海円寺の大銀杏 [Z900RSと名木]

2020年11月下旬、群馬に行った際に立ち寄った場所。

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駐車場へ。

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海圓寺:
戦国時代の猿ヶ京宮之城主 尻高左馬之介義隆が天正八年沼田城代
海野能登守輝幸に砦を渡すまで護身観音としていた馬頭観世音菩薩
を後に、家臣の笛木雅楽之助が、慶長2年(1597)相俣村字竹ノ上に
観音堂を建立し馬頭観音を御本尊様として祀り、須川泰寧寺3世
学庵長藝和尚を招待して山号を捕陀山・寺号を海圓寺とし開創
された寺である。
この観音佛は智仁勇を具備せる尻高氏代々の護持佛であった。
『観音の妙なる智力は諸々の世間の苦しみを救う』馬頭観音は死魔
を祈伏して無明の障害を食い尽くし諸厄を払う霊験あらたかなる
菩薩である。現在の寺は移築され立替えられているが、慶長2年
建立当時の沓石が庭に並べられている。

海圓寺の大銀杏:
海圓寺境内の一角にある銀杏の木、樹齢約400年以上ともいわれ
新治村指定天然記念物に指定されている。銀杏の木の洞窟に現代
佛師の作であるが、馬頭観音の石仏が鎮座しているのも珍しい。

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駐車所にあるこの木が大銀杏と思ったけど
馬頭観音がないので違っていた・・・・
実際、(この木を)何枚も写真を撮っていたのはここだけの話。

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ちょっと歩いて、本堂の方へ。

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海圓寺の大銀杏。

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根元には

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馬頭観音様。
「立ちごけしませんように!」

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こちらが本堂?かな。自宅っぽい気も。
「立ちごけしませんように!」

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423年前の沓石。

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鐘楼が。

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おっ、なんか凄い天井絵が。

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裏側に周って確認。

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うおおおお。ドラゴーン。

尚、龍の絵的には、

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こっちより

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こっちが近いかも。

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龍・馬頭観音・大銀杏と3つのパワーを貰い
これなら立ちごけも大丈夫っ!と思いつつ
見学完了。
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長老神社 [千葉からZ900RSと600km超]

2020年7月中旬、宮城に行った際に立ち寄った場所。

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駐車場へ。

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早速、本殿へ。

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長老開拓入植五十周年記念碑:
原生林の荒野を五十年の歳月をかけ、過重労働の
汗の結集で切り開いた大地、臥薪嘗胆の思いで築き
上げた歴史と文化、先駆者の辛苦に耐えた開拓精神
が、永遠に後継者に受け継がれ、この地がますます
発展することを願い、長老神社神殿を奉建し記念碑
を建立する。

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こういう人達が荒野を開拓していったんだろうな。

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はぁはぁはぁはぁ・・・・・・・
階段の頂上へ。

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け、景色がー。
天気が良ければ蔵王の山々が見えるのに・・・・・
日頃の行いが。

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長老神社の神殿。

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御神体は鏡。

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「バッテリーがあがりませんように!」
「パンクしませんように!」

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開拓者の臥薪嘗胆の精神をこの身に受け
下道ツーリング(たまには高速)も臥薪嘗胆
で頑張る。と思いつつ見学完了。
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浦嶋神社 [千葉からZ900RSと1000km超]

2020年9月中旬、京都に行った際に立ち寄った場所。

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駐車場へ。

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この辺りは、浦嶋伝説だけでなく
徐福伝説もあるみたい。

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神社の参道にあった銅像。
浦島太郎と乙姫様かな?
女体盛りじゃないのか・・・・

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浦嶋神社に到着。

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浦嶋神社:
浦嶋神社は宇良神社ともよばれ、醍醐天皇の延喜五年(905)
撰上の「延喜式神名帳」所載によると『宇良神社』と記され
ている式内社。創祀年代は淳和天皇の天長二年(825)、浦嶋子
を筒川大明神として祀る。その大祖は月讃命の子孫で当地の
領主、日下部首等の先祖であると伝わる。
伝承によると、浦嶋子は雄略天皇二十二年(478)七月七日美婦
に誘われ常世の国へ行き、その後三百有余年を経て淳和天皇
の天長二年(825)に帰ってきた。
常世の国に住んでいた年数は
三百四十七年間で、淳和天皇はこの話を聞き浦嶋子を筒川大
明神と名付け、小野篁(802-853、公卿・文人)を勅旨として
派遣し社殿が造営された。
遷宮の際には神事能が催され、そのつど領主の格別の保護が
見られた。暦応二年(1339)には征夷大将軍足利尊氏が来社し
幣帛、神馬、神酒を奉納するなど、古代より当地城一帯に
留まらず広域に渡り崇敬を集めている。
なお、社殿が北極星を向いて造営されており、道鏡の影響
から北極星信仰がある。

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「ソロモンよ。私は帰って来たー」
浦嶋子が帰って来た時の心境はこんな感じなのかも。

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入口すぐ横に北前船の模型が。
かっけー。飾ってみたい~。

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奉納画。
浦嶋・・・じゃなくて義経!!

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浦嶋子様へお参り。
「立ちごけしませんように!」

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尚、本殿は国登録有形文化財。

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なんか、庭が。

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蓬山の庭:
嶋子が神女に誘われ水乃江里より海の彼方の蓬山に
渡る物語を、丹後国風土記逸文は次のように記して
いる。

「その地は玉を敷けるが如く 闕壹奄映しく樓壹玲龍けり
目にも見ざりし所 耳にも聞かざりし所なり」云々

これは「とこよ」の有様を記したものだが、その他に
「蓬山」「神仙」「仙都」と書いて「とこよ」と読ませ
日本書記、浦嶋口伝記では「蓬莱山」を「とこよ」、
万葉集では「常世」を「とこよ」としている。

これは、古代中国の神仙思想の影響を強く受けたもので
あり、この庭はこれら文献及び浦嶋明神絵巻(重文)に
もとづいてつくられた。

この庭は、浦嶋子が行ったという「常世」との事。

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力石。
この石 2個が、大体Z900RSと同じ重さ。
もちろん持てないっ!

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今、自分が常世の世界に行って、帰って来た
三百四十七年間後はどうなっているんだろう。
と思いつつ見学完了。

SSブログは無くなっているだろうな・・・・・
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