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尿前の関 [千葉からZ900RSと600km超]

2020年7月下旬、宮城に行った際に立ち寄った場所。

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停められそうな場所へ。
100mぐらい上にもう一か所、停められる所あり。

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階段を下っていく・・・・はぁはぁはぁ。
ちなみに帰りは登りなので、もっとハァハハァハァハァ・・・・

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尿前の関に到着。

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尿前の関:
奥羽山脈中の、最低部を切り開いて造られた多賀城より出羽柵への
最短の街道である。元慶の乱(878)の後、出羽と陸奥の境目にあり
軍事上の要所である尿前に岩手の関が設けられ、寛文10年(1670)
改めて、尿前境目番所を設け往来を厳しく取り締まった。

元和年中(1615-23)国境から岩出山までに、尿前・鍛冶谷澤・下宮・
岩出山の4駅が置かれ、後更に中山の宿にも駅が置かれた。

元禄の仙台領絵図に「鳴子村より境まで難所、10月より3月迄積雪
馬足不叶」とあり、ここより尿前までは難所続きで元禄2年(1689)
松尾芭蕉が曽良と共に、この街道を難儀して堺田に向かっている。

享保12年(1727)秋田亀田領主がこの街道を通り、文化(1805)以後は
出羽の秋田・庄内・新庄等の家中が、江戸への往来にこの道を頻繁
に利用した。

元禄古図によると、国境より宿まで32町28間とあり、それより尿前
までは約1里の道のりである。

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関所の中はこんな感じ。

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こんな説明文も。
義経伝説 弁慶の船引き:
陸奥の国に入った義経一行は尿前の関守館に旅装束をとき、しばらくぶりに
安らぎの一夜を明かした。山の幸・川の幸でもてなしを受け、川下の川原湯
に案内された。北の方はことのほか喜ばれ朝な夕な亀若丸と共に入浴して、
長途の疲れと産後の回復にしばし留まることになった。毎日の送り迎えは
弁慶の日課となった。
以前、上鳴子には船渡・船引という地名があったが、これは北の方の毎日の
入浴に弁慶が流れを漕いで船を引いたことから出た地名だと言う。
その温泉は川原湯(現在の姥の湯)だといわれ、亀若丸を湯に入れて「この地
もはや藤原秀衡の国なれば泣き玉うともはばかることなしと申しければ、
始めて泣き玉う」と。故に、「泣き子の湯」といい、瀬見の湯は
「なかずの湯」といったという。

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「弁慶さんのエッチ」
って北の方から言われていたのかな。

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芭蕉の像も。

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オニユリも綺麗~。

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尿前の関を出て向い側に芭蕉の句碑が。

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古すぎて読めない・・・・

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俳句が書いてあるのかはよくわからない。
とりあえず3人の名前はあるみたい。

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尿前の関と言う名前だけど、近くには
トイレはないのでご注意。と思いつつ
見学完了。
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