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平重衡卿首塚 [千葉からZ900RSとちょっとその辺]

祇園精舎の鐘の音が聞こえるかもしれない。

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神社内にあった公民館の前に駐車。

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併設されている駒形神社。

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御縁起(歴史):
当地は、児玉党蛭川氏の本貫地とされ「児玉党系図」では摂津
一ノ谷合戦で戦功のあった庄四郎高家の子定重が蛭河太郎を称
している。当地の中央やや北東寄りの小名東廓で、蛭川氏の館
の周囲を巡っていたと伝わる堀跡が確認されている。応永二十
五年(一四一八)の「足利持氏御判御教書」には「児玉郡蛭河郷」
と見える。
当社の創建については「児玉郡誌」に「当社は延喜年中(九〇一
-九二三)有道宿祢氏道、牧宰惟継、旧宇宮田(現在鳥居)の地に勧
進する所にして延久年間たるを以て良馬蕃殖を本社に祈り、社
殿を修理し神田若干を寄附す。(中略)天文(一五三二-五五)の末、
北条氏康平井上杉氏と合戦の時兵火に罹り 烏有に帰したるに依
り、現今の地即ち宇坊畑に仮営を営む。(後略)」と載せられて
いる。
蛭川氏の館跡から見て北東にかつて金鑚神社があり、南西には
当社が鎮座することから、あるいは蛭川氏によって館の鬼門に
祀られたのが金鑚神社で、裏鬼門に祀られたのが当社であった
とも推測される。
「風土記稿」蛭川村の項には「駒形権現社 村の鎮守、能淵寺持」
とある。別当の能淵寺は真言宗の寺院で、開山等は不明である。
当社は、明治初年の神仏分離により能淵寺から離れ、後に村社
となった。明治四十年には、金鑚神社をはじめ地内の六社を合祀
した。

御祭神と御神徳
・駒形神・・・馬を保護し、その病を癒す

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奉納画はお米豊作。いい絵だ~。

神社となりには神社だけど墓地が。
その墓地の一角に

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平重衡卿首塚。

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為本三位中将 平重衡卿



定重が、曝されていた首をここに持ってきたとかなんとか

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平重衡卿のパワーをヘルメットに。

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馬(鉄馬=バイク)に縁起の良い、駒形神社にもお参り。
「タイヤがパンクしませんように!」

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ひとへに風の前の塵に同じ にならない
よう安全運転をしていかないと。
と思いつつ見学完了。
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