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藤原利仁公の墓 [千葉からZ900RSと300km超]

2021年、8月下旬栃木に行った際に立ち寄った場所。

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停められそうな場所へ。

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停めた場所が場所なので、急いで藤原利仁公の墓へ。

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藤原利仁公の墓はここから覗く。

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藤原利仁公の墓:
古碑は宝篋印塔で、その四面の梵字は正面から左へ次
のように解せられる。
西正面(発心点・諸行無常)
北側(修行点・是生滅法)
東裏(菩提点・生滅々己)
南側(涅槃点・寂滅為楽)
すなわち、四面の梵字は「諸行無常偈」を表してもので、
涅槃経に説かれている諸行無常・是生滅法・生滅々己・
寂滅為楽の四句である。これを詠んだものが「いろは歌」
である。
世の中の一切の現象、万物は常に変転してやむことがない
という諸行無常偈は合戦などで討死した武将の供養塔に
使用されることが多い。
「河内郡誌」には「利仁、果シテ関白ノ地二薨セシヤ否ヤ
疑ナキハズ」と利仁の墳墓所在の至難なることを述べてい
るため確証はできないが、後世に伝える文化遺産のひとつ
と称すべきであろう。



藤原利仁公は、平安時代のの伝説的な
武人4人組(四天王)の1人。

残る三人は
・坂上田村麻呂・・・初代征夷大将軍
・源頼光・・・坂田金時(金太郎)の主君
・藤原保昌・・・和泉式部の旦那

残念ながら上記3人に比べると

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四天王の中では、知名度は一番最低。

そんなマイナーな利仁公の業績が

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天下一関白獅子舞:
延喜十二年(912)鎮守将軍藤原利仁公を総大将とした討伐軍は
当時高座山麓西山に本館を構え数郡を侵略し人民を牛馬の如
く鞭打ち金銀を奪い、貢祖を着服していた蔵宗・蔵安他千余
人の賊徒をうつためにやって来た。同年五月六日、現在の田
原の地で戦いが始まり、六月十五日、高座山館に攻め入り賊
徒を討ち平らげた。当時蔵宗・蔵安の乱は平将門の乱と並ぶ
下野の二大乱と言われるほどであった。しかし利仁公は同年
十月十八日病に倒れ死去してしまった。
そこで家臣たちは、泣く々葬式をしようとしたが、一天にわ
かにかき曇り暗夜の如くなった。そこで悪魔退散のため宇宙
の麒麟をかたちどり首を三つ刻んで舞を舞うとたちまち雲は
晴れ無事葬式をすませることができた。
このドラマを獅子舞として演じたのが関白獅子舞の起源であ
り、藤原利仁公の功徳をいつまでも忘れることのないように
との人々の願いが込められ代々伝授されている。
又東照宮造営の際に地鎮し、三代徳川家光公から
「天下一関白流」の許も得ている。

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平安時代の四天王は一番マイナーだとしても
千年以上慕われる功徳を持っていたとは。
と思いつつ見学完了。
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