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宮崎城跡 [千葉からZ900RSと600km超]

富山県、最古の山城の一つ。

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駐車場へ、

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まだ、桜も咲いている。
早速、歩いて宮崎城へ。

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宮崎城空堀:
ここはもと宮崎城の空堀として浅い谷を形成していたが、
第二次世界大戦に入ってから、ここに日本陸軍に属する
電波技術研究所が設置されることになり、笹川口から
本丸までの道路が建設されたが、当時町の人たちの勤労
動員によって付近の高いところを削ってこの谷を埋めて
道路がつけられた。

今も昔も強制ボランティア・・・・

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入口。かつては有料だったのかな?

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宮崎城跡:
寿永元年(1182)京都を脱出された北陸宮は木曽義仲に
属する豪族宮崎太郎長康に護られて宮崎に居住し、
八幡山(この城山)に御所を造営せられた。
これが宮崎城のはじまりで、この後皇位継承の望みを
断たれた北陸宮の入洛後は、承久の変(1221)の戦場と
なり、戦国末期は上杉方、佐々方の武将も居城し、
安土桃山時代には前田家が家臣の高曽、小塚などの
武士を配していた、江戸時代に入り、境関所の整備に
伴い廃城となったが、宮崎城跡は県下最古の山城の
一つに数えられている。

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惣構はこんな感じ。

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山城なので見晴らし良い。
この解放感、まさに富山。

三の丸の方へ、歩を進める。

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北陸宮御墳墓。

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北陸宮の御墳墓:
北陸の宮は、治承4年(1180)に平家追討の兵を挙げ
宇治川で敗死された以仁王の第一皇子で、後白河法皇
の皇孫にあたられるが、寿永元年(1182)18才のときに
父王の志を奉じて京都を脱出された北陸宮は、越中に
入り木曽義仲に属する宮崎太郎長康に迎えられ宮崎の
地に居住せられた。
翌年8月、平氏が安徳天皇を擁して西国に逃れるや、
北陸宮は木曽義仲の後援を得て皇位を後鳥羽天皇と
競望せられたが、遂にその選に洩れ、さらに義仲の
敗死(1184)とともに支持勢力を失い、余生を京都の
嵯峨で過ごされ66才の生涯を終えられた。
この御墳墓は、昭和45年7月嵯峨御所の厚意により
御分骨を受けてこのゆかりの地に奉築したものである。

地方に中世の皇族の墳墓のあるのは、わが国でも数少ない。

宮崎太郎長康公の供養塔:
宮崎太郎長康は、平安末期における越中東部の豪族で、
木曽義仲に属し宮崎の地に館を築いていた。
寿永3年(1184)1月義仲の勢力圏だった信州に入り伊那
の黒田村を押領して宮崎城を構えた。
長門本源平盛衰記によれば、倶利伽羅の合戦で平氏攻略
の計画を立てたのは宮崎氏とあるが、この長康公のこと
である。

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この火牛の計は、宮崎太郎長康公の策だったのか。

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皇族のオーラーが漂っている気がする。

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北陸宮が天皇になっていたら、富山が
日本の首都になっていたかも。
と思いつつ見学完了。
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