天下の号外屋翁の墓 [Z900RSと1000km超]
8月中旬、北海道に行った際に立ち寄った所。
函館山の墓地のところ。
ひときわ赤いお墓が。
天下の号外屋翁の墓:
信濃助治は、明治27年(1894年)6月、衣類・コート・帽子
・足袋のはてまで赤ずくめで来函した。
同年11月、日清戦争の頃、彼は北海新聞の号外を函館市民
にまいて"天下の号外屋" と称して売り出し、「赤服」と呼
ばれていた。
「赤心」(いつわりの無い心)は日本武道の精髄を表すとして
すべて赤色を用いたことである。日清戦争終結後は、戦勝
記念に名将軍を全国に訪ねて書を頼むなど、奇行の多い人
だったので、当時の地元の新聞にも奇人として紹介されて
いる。
前から横からとても真っ赤なお墓。
まさに函館の赤い彗星。
「天下の号外屋」でも真っ赤な嘘があったのかも。
と思いつつ見学完了。
函館山の墓地のところ。
ひときわ赤いお墓が。
天下の号外屋翁の墓:
信濃助治は、明治27年(1894年)6月、衣類・コート・帽子
・足袋のはてまで赤ずくめで来函した。
同年11月、日清戦争の頃、彼は北海新聞の号外を函館市民
にまいて"天下の号外屋" と称して売り出し、「赤服」と呼
ばれていた。
「赤心」(いつわりの無い心)は日本武道の精髄を表すとして
すべて赤色を用いたことである。日清戦争終結後は、戦勝
記念に名将軍を全国に訪ねて書を頼むなど、奇行の多い人
だったので、当時の地元の新聞にも奇人として紹介されて
いる。
前から横からとても真っ赤なお墓。
まさに函館の赤い彗星。
「天下の号外屋」でも真っ赤な嘘があったのかも。
と思いつつ見学完了。