南帝陵 [千葉からZ900RSと1000km超]
10月上旬、奈良に行った際に立ち寄った場所。
駐車場へ。
南帝陵:
「ここ国王神社の境内にある」長慶天皇は、文中2年(1373年)
8月御位いを弟の御亀山天皇に譲られ、同年10月まで、紀伊国
玉川の宮におられたが、賊徒の襲来を受け大和の天の川村、
五色谷行在所へお移りになったところが、ここでも賊徒に襲わ
れたので、もはや運命もこれまでと同所の「廻り岩」でご自害
なされた。このとき、近侍のものが、ご遺体を水葬に付したと
ころ、数日を経て御首が、下流の十津川村上野地字河津の渕
(現在地付近)へ流れつき毎夜水底より、不思議な一条の光を発
した。これをみつけた村人が、丁重にこのところへ葬り玉石を
安置してお首塚と呼んだ。以上が南帝陵の十津川村における伝
説の概略である。しかし、歴史上、天皇は弘和2年(1382年)まで
在位されていたことになっており大和誌によると、神社が長慶
天皇の勅願宮となっていることなどから日時が神社創建のとき
と混同されて伝えられたと思われる。いずれにしろ村民が
600年来長慶天皇の在位を確信し、これを奉祀してきたことに
十津川村の特殊性がある。
南朝の天皇なので、こんな御陵を
イメージしたり・・・・・
早速、南帝陵へ。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・・
国王神社裏手。
表門へ。
国王神社本殿。
国王神社 祭神 長慶天皇。
長慶天皇へ御祈願
「追突されませんように!」
そして南帝陵への階段。
うっ、すごい階段。
ここまでバイクで600km以上走行。
こんなイメージで階段を登ることに。
と、到着っ!
この下には長慶天皇の首が。
まさに玉石っ!
長慶天皇が南斗鳳凰拳の使い手だったら
賊徒から逃走する必要が無かったのに・・・
と思いつつ見学完了。
駐車場へ。
南帝陵:
「ここ国王神社の境内にある」長慶天皇は、文中2年(1373年)
8月御位いを弟の御亀山天皇に譲られ、同年10月まで、紀伊国
玉川の宮におられたが、賊徒の襲来を受け大和の天の川村、
五色谷行在所へお移りになったところが、ここでも賊徒に襲わ
れたので、もはや運命もこれまでと同所の「廻り岩」でご自害
なされた。このとき、近侍のものが、ご遺体を水葬に付したと
ころ、数日を経て御首が、下流の十津川村上野地字河津の渕
(現在地付近)へ流れつき毎夜水底より、不思議な一条の光を発
した。これをみつけた村人が、丁重にこのところへ葬り玉石を
安置してお首塚と呼んだ。以上が南帝陵の十津川村における伝
説の概略である。しかし、歴史上、天皇は弘和2年(1382年)まで
在位されていたことになっており大和誌によると、神社が長慶
天皇の勅願宮となっていることなどから日時が神社創建のとき
と混同されて伝えられたと思われる。いずれにしろ村民が
600年来長慶天皇の在位を確信し、これを奉祀してきたことに
十津川村の特殊性がある。
南朝の天皇なので、こんな御陵を
イメージしたり・・・・・
早速、南帝陵へ。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・・
国王神社裏手。
表門へ。
国王神社本殿。
国王神社 祭神 長慶天皇。
長慶天皇へ御祈願
「追突されませんように!」
そして南帝陵への階段。
うっ、すごい階段。
ここまでバイクで600km以上走行。
こんなイメージで階段を登ることに。
と、到着っ!
この下には長慶天皇の首が。
まさに玉石っ!
長慶天皇が南斗鳳凰拳の使い手だったら
賊徒から逃走する必要が無かったのに・・・
と思いつつ見学完了。