束松事件跡 [千葉からZ900RSと600km超]
2021年10月下旬、福島に行った際に立ち寄った場所。
停められそうな場所へ。
この樹の下に・・・・
看板が!
束松事件跡:
束松事件は、越前藩士久保村文四郎が会津藩士に殺害された
事件で、ここ片門新田場が現場である。ここは越後街道に交
差して柳津藤から西羽賀に通じる十字路で逃走には絶好の場
所であった。
敗戦の若松に置かれた民政局の役人久保村文四郎は、会津藩
や藩士を侮辱したり、罪のない会津人を偽札の犯人と言って
投獄したり、平生から藩士の恨みを買っていました。明治二
年夏、任終わって故郷の福井に帰郷することとなり
「八つ時頃、文四郎は、当番だった片門の人足が担ぐ駕籠に
乗って、新田場滝沢橋の近くに行ったと、すると右手の藪か
ら刀を抜いた二人の侍が飛び出したと、駕籠かきはたんまげ
て藪に隠れて見ていたと、文四郎はそばにあった煙草盆をサ
ッと被ったと、駕籠から出た文四郎を挟んで二人は十間も離
れて睨み合っていたと、タタっと二人が詰め寄ると文四郎は
倒れていたと」(駕籠かきの話を聞いた村人の話より)二人の
刺客は西羽賀のほうに逃げて行ったという。刺客は剣の達人
で高潔の士、伴百悦と高津仲三郎であった。伴は翌年新津藩
兵に追われて大安寺村で割腹して果て、高津は明治政府転覆
の思案橋事件に加わり断罪されたという。
剣の達人と言えども二人がかりとは・・・・
実際、時代劇の様に一人で何十人もバッサリ
斬り倒すことなんてできないんだろうな。
夜は真っ暗だろうな。
蛍も居るよ。
もしかしたら、約150年前の刀傷かも。
明治維新後は(勝ち組による)侮辱・差別や(負け組による)
恨み・つらみの刃傷沙汰も多かったんだろうな。
と思いつつ見学完了。
停められそうな場所へ。
この樹の下に・・・・
看板が!
束松事件跡:
束松事件は、越前藩士久保村文四郎が会津藩士に殺害された
事件で、ここ片門新田場が現場である。ここは越後街道に交
差して柳津藤から西羽賀に通じる十字路で逃走には絶好の場
所であった。
敗戦の若松に置かれた民政局の役人久保村文四郎は、会津藩
や藩士を侮辱したり、罪のない会津人を偽札の犯人と言って
投獄したり、平生から藩士の恨みを買っていました。明治二
年夏、任終わって故郷の福井に帰郷することとなり
「八つ時頃、文四郎は、当番だった片門の人足が担ぐ駕籠に
乗って、新田場滝沢橋の近くに行ったと、すると右手の藪か
ら刀を抜いた二人の侍が飛び出したと、駕籠かきはたんまげ
て藪に隠れて見ていたと、文四郎はそばにあった煙草盆をサ
ッと被ったと、駕籠から出た文四郎を挟んで二人は十間も離
れて睨み合っていたと、タタっと二人が詰め寄ると文四郎は
倒れていたと」(駕籠かきの話を聞いた村人の話より)二人の
刺客は西羽賀のほうに逃げて行ったという。刺客は剣の達人
で高潔の士、伴百悦と高津仲三郎であった。伴は翌年新津藩
兵に追われて大安寺村で割腹して果て、高津は明治政府転覆
の思案橋事件に加わり断罪されたという。
剣の達人と言えども二人がかりとは・・・・
実際、時代劇の様に一人で何十人もバッサリ
斬り倒すことなんてできないんだろうな。
夜は真っ暗だろうな。
蛍も居るよ。
もしかしたら、約150年前の刀傷かも。
明治維新後は(勝ち組による)侮辱・差別や(負け組による)
恨み・つらみの刃傷沙汰も多かったんだろうな。
と思いつつ見学完了。