鳥海山大物忌神社 [千葉からZ900RSと1000km超]
7月中旬、山形に行った際に立ち寄った場所。
駐車場へ。
拝殿か幣殿。本殿ではない。
神宮大麻をおまつりしましょう。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・・・・
社務所には色々なお守りが。
でも、朝早すぎてやっていない。
本殿へ。
うっ!。すごい階段・・・・・・・
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、到着っ!
鳥海山大物忌神社:
本境内の一番奥、最高所に大物忌神を祀る大物忌神社本殿(東側)
月山神を祀る摂社月山神社本殿(西側)が南面して並び立っている。
前身の本殿が宝永三年(1706)正月の火災で焼失し、宝永八年(1711)
に庄内藩酒井家によって、現本殿が再建されたと伝わる。本殿
後ろの斜面に石段が残っており、鳥海山詣りの道者たちは、この
石段を通り、山に向かったと言われている。
両社殿は、彫刻や脇障子の絵柄を除けば、全く同型、同大の一間
社流造の建築である。もとは屋根が茅葺であったが、昭和三八年
(1963)の千四百年祭の際、銅板に葺き替えられた。昭和十四年
(1939)に壁板や土台を取り替え、屋根を葺き替えるなど修理され
併せて周囲の中門廻廊や玉垣が造り替えられている。続いて中門
の下方には、戦時下の昭和十八年(1943)に、台湾産檜材を用いて
桁行五間、梁間三間の拝殿を建て、登廊で繋がれた。これら昭和
戦前期建造物の設計は、東京小石川区の小林設計事務所小林謙一
が担当した。江戸中期の地方色のある両本殿と、近代の端正な設
計の拝殿等が破綻なく融和しているのは、設計者が内務省神社局
宮内省内匠寮の設計者の系譜に連なり、神社建築の設計手法に通
じていたことをうかがわせる。
周囲のタブノキや杉の社叢とあいまって、かつて「出羽國一宮両
所宮」とも称され、明治以降「国弊中社」に格付けされた大神の
社殿としての風格が感じられる。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・・長い。
小石川区なんてあったんだー。
両社殿は見えない。
これ以上先に行けない。
御祈願を。
「追突されませんように!」
鳥海山のご加護を頂き見学完了。
駐車場へ。
拝殿か幣殿。本殿ではない。
神宮大麻をおまつりしましょう。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・・・・
社務所には色々なお守りが。
でも、朝早すぎてやっていない。
本殿へ。
うっ!。すごい階段・・・・・・・
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ、到着っ!
鳥海山大物忌神社:
本境内の一番奥、最高所に大物忌神を祀る大物忌神社本殿(東側)
月山神を祀る摂社月山神社本殿(西側)が南面して並び立っている。
前身の本殿が宝永三年(1706)正月の火災で焼失し、宝永八年(1711)
に庄内藩酒井家によって、現本殿が再建されたと伝わる。本殿
後ろの斜面に石段が残っており、鳥海山詣りの道者たちは、この
石段を通り、山に向かったと言われている。
両社殿は、彫刻や脇障子の絵柄を除けば、全く同型、同大の一間
社流造の建築である。もとは屋根が茅葺であったが、昭和三八年
(1963)の千四百年祭の際、銅板に葺き替えられた。昭和十四年
(1939)に壁板や土台を取り替え、屋根を葺き替えるなど修理され
併せて周囲の中門廻廊や玉垣が造り替えられている。続いて中門
の下方には、戦時下の昭和十八年(1943)に、台湾産檜材を用いて
桁行五間、梁間三間の拝殿を建て、登廊で繋がれた。これら昭和
戦前期建造物の設計は、東京小石川区の小林設計事務所小林謙一
が担当した。江戸中期の地方色のある両本殿と、近代の端正な設
計の拝殿等が破綻なく融和しているのは、設計者が内務省神社局
宮内省内匠寮の設計者の系譜に連なり、神社建築の設計手法に通
じていたことをうかがわせる。
周囲のタブノキや杉の社叢とあいまって、かつて「出羽國一宮両
所宮」とも称され、明治以降「国弊中社」に格付けされた大神の
社殿としての風格が感じられる。
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ・・・・長い。
小石川区なんてあったんだー。
両社殿は見えない。
これ以上先に行けない。
御祈願を。
「追突されませんように!」
鳥海山のご加護を頂き見学完了。