立春過ぎたけど寒い茨城へ [ルート記録、小ネタ]
春はまだ遠い・・・
今回のルート。
今回の距離と燃費。
うわぁっ、燃費わろし。
そして・・・・
パーフェクト下道。
=====茨城県道29号線=====
茨城の山間部。
自転車専用レーンが。
信号少ないし、走り易いかも。
その先に行くと・・・・
通行止め。
本線は脇道の方へ。
バイパス工事中。
山間部の県道をバイパス化。
千葉も茨城を見習えと。
=====冬と言えば鍋=====
児童公園の駐車場。
裏に鉄の物体が!
鍋っ。
関東一の芋煮会:
この鍋は、平成14年11月に地元の(株)川和工業所で
製作されました。直径3.5m、深さ1.1m、重さ1.8t。
清流公園で毎年11月に開催される「やまがた芋煮会」
で使用され、5000~10000食分の芋煮が作られます。
主な食材は、肉・コンニャク・ネギ・ゴボウ・舞茸
芋がら・砂糖・清酒・醤油等です。
燃料は、ナラ材等が使用されます。
本場山形と茨城の山方をかけたのね。
=====あの山の方には近づけなかった=====
茨城県道246号線。
あの山の方へいくつもりだったけど
雪がちらついてきて断念。
13:31 気温5℃。
雪雲っぽいのが出ているし・・・
標高や緯度が高くなると、まだ厳しいかな。
今回のルート。
今回の距離と燃費。
うわぁっ、燃費わろし。
そして・・・・
パーフェクト下道。
=====茨城県道29号線=====
茨城の山間部。
自転車専用レーンが。
信号少ないし、走り易いかも。
その先に行くと・・・・
通行止め。
本線は脇道の方へ。
バイパス工事中。
山間部の県道をバイパス化。
千葉も茨城を見習えと。
=====冬と言えば鍋=====
児童公園の駐車場。
裏に鉄の物体が!
鍋っ。
関東一の芋煮会:
この鍋は、平成14年11月に地元の(株)川和工業所で
製作されました。直径3.5m、深さ1.1m、重さ1.8t。
清流公園で毎年11月に開催される「やまがた芋煮会」
で使用され、5000~10000食分の芋煮が作られます。
主な食材は、肉・コンニャク・ネギ・ゴボウ・舞茸
芋がら・砂糖・清酒・醤油等です。
燃料は、ナラ材等が使用されます。
本場山形と茨城の山方をかけたのね。
=====あの山の方には近づけなかった=====
茨城県道246号線。
あの山の方へいくつもりだったけど
雪がちらついてきて断念。
13:31 気温5℃。
雪雲っぽいのが出ているし・・・
標高や緯度が高くなると、まだ厳しいかな。
D51238 [千葉からZ900RSと600km超]
小町堂 [千葉からZ900RSと1000km超]
2021年、9月下旬秋田に行った際に立ち寄った場所。
駐車場へ。
小野小町生誕の地:(一部見えないので推測)
花の色は、うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
小野小町は大同四年、出羽国福富の荘(湯沢市小野字桐の木田)
で生まれました。
幼い頃から美しく十三歳の頃、京にのぼりその後二十年程宮中
に仕えました。その容姿の美しさや才能の優れていることなど
数多くの女官中ならぶ者がいないと言われ、時の帝から寵愛を
受けました。しかし小町は三十六歳にして、故郷悲しさのあま
り生地小野の村に戻り、庵をつくり歌に明け歌に暮らしており
ました。京から小町が居なくなったので、小町に想いを寄せて
いた深草少将は急ぎ出家をし、長鮮寺に仮の住いを求めました。
そして百夜通いの逸話を残し九十九日目の夜、降り続いた雨の
中森子川にかかった橋とともに流されて亡くなってしまうので
す。これを聞いた小町は嘆き悲しみ少将の亡骸を森子山(二ツ森)
に葬りました。
この後小町は、岩屋堂に住み世を避け香をたきながら一人自像
を刻み、九十二歳で生涯を閉じました。
小町まつりは、毎年芍薬の花香る、六月第二日曜日に七小町に
よる和歌朗詠、稚児行列などが、盛大におこなわれます。
小町まつりは、毎年湯沢市内から七人の
小野小町が選ばれると言う。
小野小町が毎年、量産されるのか・・・すごい。
その内、通常より3倍速いシャア専用の小町が選ばれるかも。
小町娘の有償撮影会もあるよ。
小町堂内へ。
なんか中国風っぽい。
近くには、菅江真澄来訪弐百周年記念。
菅江真澄さんが来訪した場所。
菅江真澄:
江戸中期の民族学者・紀行家。本名、白井秀雄。三河の人。
一七八四(天明四年)三十一才出羽へ入国。東北各地を巡遊
すること四十年。当時の民間記録を含め、貴重な資料が菟
集されている。その中の「雪の出羽路」小野のふるさとに
は、当時の小野村に伝わる小野の小町の郷土伝承が刻明に
描かれている。一八二九(文政十二年)七月、七十六才。
角館にて死去する。
小町さんにお参り。
「タイヤがパンクしませんように!」
この地で彼女を作ったら「俺の彼女、小野小町」
って言えるのかな。と思いつつ見学完了。
駐車場へ。
小野小町生誕の地:(一部見えないので推測)
花の色は、うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
小野小町は大同四年、出羽国福富の荘(湯沢市小野字桐の木田)
で生まれました。
幼い頃から美しく十三歳の頃、京にのぼりその後二十年程宮中
に仕えました。その容姿の美しさや才能の優れていることなど
数多くの女官中ならぶ者がいないと言われ、時の帝から寵愛を
受けました。しかし小町は三十六歳にして、故郷悲しさのあま
り生地小野の村に戻り、庵をつくり歌に明け歌に暮らしており
ました。京から小町が居なくなったので、小町に想いを寄せて
いた深草少将は急ぎ出家をし、長鮮寺に仮の住いを求めました。
そして百夜通いの逸話を残し九十九日目の夜、降り続いた雨の
中森子川にかかった橋とともに流されて亡くなってしまうので
す。これを聞いた小町は嘆き悲しみ少将の亡骸を森子山(二ツ森)
に葬りました。
この後小町は、岩屋堂に住み世を避け香をたきながら一人自像
を刻み、九十二歳で生涯を閉じました。
小町まつりは、毎年芍薬の花香る、六月第二日曜日に七小町に
よる和歌朗詠、稚児行列などが、盛大におこなわれます。
小町まつりは、毎年湯沢市内から七人の
小野小町が選ばれると言う。
小野小町が毎年、量産されるのか・・・すごい。
その内、通常より3倍速いシャア専用の小町が選ばれるかも。
小町娘の有償撮影会もあるよ。
小町堂内へ。
なんか中国風っぽい。
近くには、菅江真澄来訪弐百周年記念。
菅江真澄さんが来訪した場所。
菅江真澄:
江戸中期の民族学者・紀行家。本名、白井秀雄。三河の人。
一七八四(天明四年)三十一才出羽へ入国。東北各地を巡遊
すること四十年。当時の民間記録を含め、貴重な資料が菟
集されている。その中の「雪の出羽路」小野のふるさとに
は、当時の小野村に伝わる小野の小町の郷土伝承が刻明に
描かれている。一八二九(文政十二年)七月、七十六才。
角館にて死去する。
小町さんにお参り。
「タイヤがパンクしませんように!」
この地で彼女を作ったら「俺の彼女、小野小町」
って言えるのかな。と思いつつ見学完了。
藤原利仁公の墓 [千葉からZ900RSと300km超]
2021年、8月下旬栃木に行った際に立ち寄った場所。
停められそうな場所へ。
停めた場所が場所なので、急いで藤原利仁公の墓へ。
藤原利仁公の墓はここから覗く。
藤原利仁公の墓:
古碑は宝篋印塔で、その四面の梵字は正面から左へ次
のように解せられる。
西正面(発心点・諸行無常)
北側(修行点・是生滅法)
東裏(菩提点・生滅々己)
南側(涅槃点・寂滅為楽)
すなわち、四面の梵字は「諸行無常偈」を表してもので、
涅槃経に説かれている諸行無常・是生滅法・生滅々己・
寂滅為楽の四句である。これを詠んだものが「いろは歌」
である。
世の中の一切の現象、万物は常に変転してやむことがない
という諸行無常偈は合戦などで討死した武将の供養塔に
使用されることが多い。
「河内郡誌」には「利仁、果シテ関白ノ地二薨セシヤ否ヤ
疑ナキハズ」と利仁の墳墓所在の至難なることを述べてい
るため確証はできないが、後世に伝える文化遺産のひとつ
と称すべきであろう。
藤原利仁公は、平安時代のの伝説的な
武人4人組(四天王)の1人。
残る三人は
・坂上田村麻呂・・・初代征夷大将軍
・源頼光・・・坂田金時(金太郎)の主君
・藤原保昌・・・和泉式部の旦那
残念ながら上記3人に比べると
四天王の中では、知名度は一番最低。
そんなマイナーな利仁公の業績が
天下一関白獅子舞:
延喜十二年(912)鎮守将軍藤原利仁公を総大将とした討伐軍は
当時高座山麓西山に本館を構え数郡を侵略し人民を牛馬の如
く鞭打ち金銀を奪い、貢祖を着服していた蔵宗・蔵安他千余
人の賊徒をうつためにやって来た。同年五月六日、現在の田
原の地で戦いが始まり、六月十五日、高座山館に攻め入り賊
徒を討ち平らげた。当時蔵宗・蔵安の乱は平将門の乱と並ぶ
下野の二大乱と言われるほどであった。しかし利仁公は同年
十月十八日病に倒れ死去してしまった。
そこで家臣たちは、泣く々葬式をしようとしたが、一天にわ
かにかき曇り暗夜の如くなった。そこで悪魔退散のため宇宙
の麒麟をかたちどり首を三つ刻んで舞を舞うとたちまち雲は
晴れ無事葬式をすませることができた。
このドラマを獅子舞として演じたのが関白獅子舞の起源であ
り、藤原利仁公の功徳をいつまでも忘れることのないように
との人々の願いが込められ代々伝授されている。
又東照宮造営の際に地鎮し、三代徳川家光公から
「天下一関白流」の許も得ている。
平安時代の四天王は一番マイナーだとしても
千年以上慕われる功徳を持っていたとは。
と思いつつ見学完了。
停められそうな場所へ。
停めた場所が場所なので、急いで藤原利仁公の墓へ。
藤原利仁公の墓はここから覗く。
藤原利仁公の墓:
古碑は宝篋印塔で、その四面の梵字は正面から左へ次
のように解せられる。
西正面(発心点・諸行無常)
北側(修行点・是生滅法)
東裏(菩提点・生滅々己)
南側(涅槃点・寂滅為楽)
すなわち、四面の梵字は「諸行無常偈」を表してもので、
涅槃経に説かれている諸行無常・是生滅法・生滅々己・
寂滅為楽の四句である。これを詠んだものが「いろは歌」
である。
世の中の一切の現象、万物は常に変転してやむことがない
という諸行無常偈は合戦などで討死した武将の供養塔に
使用されることが多い。
「河内郡誌」には「利仁、果シテ関白ノ地二薨セシヤ否ヤ
疑ナキハズ」と利仁の墳墓所在の至難なることを述べてい
るため確証はできないが、後世に伝える文化遺産のひとつ
と称すべきであろう。
藤原利仁公は、平安時代のの伝説的な
武人4人組(四天王)の1人。
残る三人は
・坂上田村麻呂・・・初代征夷大将軍
・源頼光・・・坂田金時(金太郎)の主君
・藤原保昌・・・和泉式部の旦那
残念ながら上記3人に比べると
四天王の中では、知名度は一番最低。
そんなマイナーな利仁公の業績が
天下一関白獅子舞:
延喜十二年(912)鎮守将軍藤原利仁公を総大将とした討伐軍は
当時高座山麓西山に本館を構え数郡を侵略し人民を牛馬の如
く鞭打ち金銀を奪い、貢祖を着服していた蔵宗・蔵安他千余
人の賊徒をうつためにやって来た。同年五月六日、現在の田
原の地で戦いが始まり、六月十五日、高座山館に攻め入り賊
徒を討ち平らげた。当時蔵宗・蔵安の乱は平将門の乱と並ぶ
下野の二大乱と言われるほどであった。しかし利仁公は同年
十月十八日病に倒れ死去してしまった。
そこで家臣たちは、泣く々葬式をしようとしたが、一天にわ
かにかき曇り暗夜の如くなった。そこで悪魔退散のため宇宙
の麒麟をかたちどり首を三つ刻んで舞を舞うとたちまち雲は
晴れ無事葬式をすませることができた。
このドラマを獅子舞として演じたのが関白獅子舞の起源であ
り、藤原利仁公の功徳をいつまでも忘れることのないように
との人々の願いが込められ代々伝授されている。
又東照宮造営の際に地鎮し、三代徳川家光公から
「天下一関白流」の許も得ている。
平安時代の四天王は一番マイナーだとしても
千年以上慕われる功徳を持っていたとは。
と思いつつ見学完了。