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太郎三郎三人様の祠 [千葉からZ900RSと300km超]

国道120号線、椎坂峠近く。

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ちょっと停められる場所へ。

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祠に到着。

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太郎三郎三人様の祠:
慶長十九年(1614)大阪冬の陣にあたり、幕府は各大名に出陣を命じた。
それにともなって、村々からたくさんの人夫が集められた。
沼田城主真田信之にも出陣の命令が下り、生枝村からも一人分の人夫
を出すことになった。

名主は、村人を集めて幾度となく話し合ったが、誰も応ずる者はなかった。
これでは殿様に申し訳が立たないと相談の結果、浪人の太郎三郎に話を
持ちかけた所、村のためになるならと返事をした。村の人達は、大阪まで
出向いての戦い、しかも相手は豊臣だから生きては帰ってくるまいと思い
無事に帰って来た時には生枝の石高(153石)の半分を太郎三郎に与えること
を約束して送り出した。


戦いが終わってしばらくして、沼田城主真田の殿様が帰城したと言う話が
伝わった。その話を聞いて間もなく、太郎三郎が村に帰って来た。

「さぁ、大変だ」太郎三郎は村の石高の半分を貰える訳だから、村は
大騒ぎとなった。約束通り村の石高の半分を取られると村は成り立って
ゆかなくなってしまう。そこで試案 思案の結果、太郎三郎を亡き者にする
ことと決めた。


可哀そうだが背に腹は代えられない。

名主の家で、三月三日の節句のお祝いを催した。太郎三郎は、そのお祝い
に招かれて出席してみた。けれども、辺りの様子に不安を感じ、名主の
家を逃げ出した。計画を悟られた村人達は、その後を追い、西原で追い
ついて、よってたかって殺してしまった。太郎三郎の妻もそれを聞いて
覚悟を決め、幼児二人を石臼でひき殺し、自分も自害して果てた。


その後、生枝村では毎年作物が不作で村人にも災難がふりかかった。
村人達はこれはきっと太郎三郎達の祟りであろうと思い、この地に
石の祠と社を建てて冥福を祈った。

当時建てられた社が老朽化したため、平成十年十二月、生枝地区の人々
の寄付により、この新しい社が建てられた。

白沢村(現、沼田市)の話だけど
どうみてもブラック。

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ご本尊の太郎三郎様。
「パンクしませんように!」
「バッテリーあがりませんように!」

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太郎三郎様は今でもこの村を
見守っているのかも・・・・

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大阪冬の陣を生き残ったのに、まさか故郷に
帰って村人達に殺されるとは。敵は味方にあり。
と思いつつ見学完了。
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