長谷釜神明社の大イチョウ [Z900RSと名木]
2024年11月下旬、宮城に行った際に立ち寄った所。


近くの公園の駐車場へ。

長谷釜神明社。

平和祈念碑が。
平和祈念碑:
この長谷釜の地に生をうけ長して義勇奉公に一身を捧げる
ことが男子の本懐であると、かたく信じ祖国の大難にする
ため最愛の家族を郷土に残して海山幾千里離れた異郷の地
に九十一名の勇士が出征しましたが、不幸にも十八名の方
々が戦死を遂げられました。
終戦後四十年の歳月が過ぎた今、私達は平和な日本、すみ
よい郷土で平穏な日々を送っていますが、あの戦中戦後の
厳しい生活を再度繰り返す様なことは絶対にあってはなら
ないことと、かたく心に押するものであります。
今は亡き護国の鬼と化した十八柱の御霊に合掌して御冥福
をお祈り致しますと共に戦後に生をうけられた方々に私達
の苦難の歴史を伝え、これを教訓として世界の平和を希求
し郷土の一層の繁栄のため共存共栄の途を共に扶け合って
精進せられんことを期待する。
私達の意を準に託して後世に伝えるため、この弾を建立します。
そして、さらに

東日本大震災慰霊碑。
大イチョウとともに:
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分に発生したマグ
ニチュード九・〇の東北地方太平洋沖地震に伴う大津波は、
長谷釜集落内の全ての家屋を流失させ集落民三十七名の尊
い命を奪った。
その後、集落民は内陸の地への住居移転を決断し、この地
に居住する者はいなくなったが、神明神社の大イチョウは
高さ約六Mもの大津波にも耐え、今も静かに集落跡地を見
守っている。
生き残った我々は、避難誘導にあたられて亡くなった消防
団員の方々や避難途中で亡くなった集落民に対し、哀悼の
誠を捧げるとともに、この地に長谷釜集落があったことを
忘れず、この地を離れても大イチョウと共に生きていくこ
とを決意し、慰霊を建立するものである。

鳥居から見た景色。
いちょうの大きさが際立っている。

もちろん、いちょうはフサフサ。


6Mの大津波に耐えた幹。

大イチョウの他にも参拝講の碑が。

ご祈願を
「タイヤが一年間持ちます様に!」

大津波に耐えたイチョウとして、地域を
見守っていくんだろうな・・・・
と思いつつ見学完了。


近くの公園の駐車場へ。

長谷釜神明社。

平和祈念碑が。
平和祈念碑:
この長谷釜の地に生をうけ長して義勇奉公に一身を捧げる
ことが男子の本懐であると、かたく信じ祖国の大難にする
ため最愛の家族を郷土に残して海山幾千里離れた異郷の地
に九十一名の勇士が出征しましたが、不幸にも十八名の方
々が戦死を遂げられました。
終戦後四十年の歳月が過ぎた今、私達は平和な日本、すみ
よい郷土で平穏な日々を送っていますが、あの戦中戦後の
厳しい生活を再度繰り返す様なことは絶対にあってはなら
ないことと、かたく心に押するものであります。
今は亡き護国の鬼と化した十八柱の御霊に合掌して御冥福
をお祈り致しますと共に戦後に生をうけられた方々に私達
の苦難の歴史を伝え、これを教訓として世界の平和を希求
し郷土の一層の繁栄のため共存共栄の途を共に扶け合って
精進せられんことを期待する。
私達の意を準に託して後世に伝えるため、この弾を建立します。
そして、さらに

東日本大震災慰霊碑。
大イチョウとともに:
平成二十三年三月十一日午後二時四十六分に発生したマグ
ニチュード九・〇の東北地方太平洋沖地震に伴う大津波は、
長谷釜集落内の全ての家屋を流失させ集落民三十七名の尊
い命を奪った。
その後、集落民は内陸の地への住居移転を決断し、この地
に居住する者はいなくなったが、神明神社の大イチョウは
高さ約六Mもの大津波にも耐え、今も静かに集落跡地を見
守っている。
生き残った我々は、避難誘導にあたられて亡くなった消防
団員の方々や避難途中で亡くなった集落民に対し、哀悼の
誠を捧げるとともに、この地に長谷釜集落があったことを
忘れず、この地を離れても大イチョウと共に生きていくこ
とを決意し、慰霊を建立するものである。

鳥居から見た景色。
いちょうの大きさが際立っている。

もちろん、いちょうはフサフサ。


6Mの大津波に耐えた幹。

大イチョウの他にも参拝講の碑が。

ご祈願を
「タイヤが一年間持ちます様に!」

大津波に耐えたイチョウとして、地域を
見守っていくんだろうな・・・・
と思いつつ見学完了。