平時忠一族の墳 [千葉からZ900RSと1000km超]
珠洲市の山中にひっそりと。
駐車場に到着。
源義経と平時忠~仇敵を超越した義親子の絆~
文治元年(一一八五)三月の壇ノ浦の戦いで敗れ、囚われ
の身となった平時忠は、半年後の九月に能登へ流された。
時忠は現在の珠洲市大谷町に辿り着き、付近にしばらく
滞在した後、平家の守り神であるカラスに導かれて川を
さかのぼり、上流の静かな土地(大谷町則貞)に居を構えた。
以後、北嶋荒御前神社や吉祥寺の元地・古屋などを訪ね
歌などを残した。
「白波の打ち驚かす岩の上に寝らえで松の幾世経ぬらん」
これは時忠が配流地で、波に洗われる岩間に生えた松を
我が身にたとえて詠んだ歌である。左記の歌碑がそれで
ある。その時忠の娘が、源義経の妻であったことから、
義経は奥州へ向かう際、義理の父・時忠を訪ねるために
珠洲に立ち寄ったのである。こうした仇敵を超越した義
親子の絆の深さは、今もなお語り継がれている。
さらに近くには能登平家物語の絵巻が。
平清盛と同じ時代を生き
「平家に非ずんば人に非ず」
と豪語した"平大納言時忠"
「白波の打ち驚かす岩の上に寝らえで松の幾世経ぬらん」
の隣の階段を下りて一族の墳へ。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・
ん!?。進んでみる。
平氏の家紋が。
到着っ!
平一族墓所:
時忠卿甲子年卯月廿四日御逝去に依り
この地にて葬る。先代を偲び墓所に
石碑を建立する。
時忠卿は此の地に配流後後妻を娶り一子
を授かり子に源氏の監視を和らげる為
姓を則貞(規律順守)と改め健康を願い
時康と命名。
もし、時忠卿が今の時代バイク乗りになっていたら・・・
「Araiに非ずんばヘルメットに非ず」
と言っていたかも。
※注、時忠卿のお言葉です。
実際のお墓はこちら。
鍵がかかっていて中には入れない・・・
扉越しから。
一番手前の大きいのが時忠卿のお墓。
一族を滅ぼされ、娘も殺され、婿さんも
殺され、もしかしたら恨みはあったかも・・・
と思いつつ見学完了。
駐車場に到着。
源義経と平時忠~仇敵を超越した義親子の絆~
文治元年(一一八五)三月の壇ノ浦の戦いで敗れ、囚われ
の身となった平時忠は、半年後の九月に能登へ流された。
時忠は現在の珠洲市大谷町に辿り着き、付近にしばらく
滞在した後、平家の守り神であるカラスに導かれて川を
さかのぼり、上流の静かな土地(大谷町則貞)に居を構えた。
以後、北嶋荒御前神社や吉祥寺の元地・古屋などを訪ね
歌などを残した。
「白波の打ち驚かす岩の上に寝らえで松の幾世経ぬらん」
これは時忠が配流地で、波に洗われる岩間に生えた松を
我が身にたとえて詠んだ歌である。左記の歌碑がそれで
ある。その時忠の娘が、源義経の妻であったことから、
義経は奥州へ向かう際、義理の父・時忠を訪ねるために
珠洲に立ち寄ったのである。こうした仇敵を超越した義
親子の絆の深さは、今もなお語り継がれている。
さらに近くには能登平家物語の絵巻が。
平清盛と同じ時代を生き
「平家に非ずんば人に非ず」
と豪語した"平大納言時忠"
「白波の打ち驚かす岩の上に寝らえで松の幾世経ぬらん」
の隣の階段を下りて一族の墳へ。
はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・・
ん!?。進んでみる。
平氏の家紋が。
到着っ!
平一族墓所:
時忠卿甲子年卯月廿四日御逝去に依り
この地にて葬る。先代を偲び墓所に
石碑を建立する。
時忠卿は此の地に配流後後妻を娶り一子
を授かり子に源氏の監視を和らげる為
姓を則貞(規律順守)と改め健康を願い
時康と命名。
もし、時忠卿が今の時代バイク乗りになっていたら・・・
「Araiに非ずんばヘルメットに非ず」
と言っていたかも。
※注、時忠卿のお言葉です。
実際のお墓はこちら。
鍵がかかっていて中には入れない・・・
扉越しから。
一番手前の大きいのが時忠卿のお墓。
一族を滅ぼされ、娘も殺され、婿さんも
殺され、もしかしたら恨みはあったかも・・・
と思いつつ見学完了。